墓石には亡き人の名前として戒名が彫刻されます。戒名をめぐっては否定的な考えを持っている人もたくさんいますが、墓守の会は、戒名が私たちを幸せにするために必要なものだと考えています。その理由と想いを綴ってみたいと思います。
目次
話を進める前に2つの大前提を押さえておく
まずはじめに、話を進めるにあたって2つの大前提をお伝えしておきます。
戒名と戒名料は別の問題
いまからここで戒名について語りますが、戒名と戒名料は別問題です。「たった数文字の戒名だけで何十万円もとるなんてぼったくりだ」というのは、それぞれのおうちとお寺の間での問題です。私たちはお客様から頂いた戒名をただ墓石に彫刻することしかできず、そこにどれだけの戒名料が包まれたかに関与できないのです。
あえて「死者への名前」としての戒名
戒名とは仏教の本義に立ち返るならば、「出家者に授けられる名前」のことであり、「死者への名前」ではありません。お坊さん方はみなさん僧侶になる時に戒名を授かりますし、一般の人も希望すれば生前戒名を授与してもらえます。しかし現実的には葬儀の時に授けられるケースが圧倒的に多く、死者への名前という要素もはらんでいるということは否めません。この記事では、死者への名前としての戒名について考えていきますね。
以上の2点を大前提としてお話を進めて参ります。
名付けには祈りが込められている
子どもが生まれた時に、親は悩んで悩んでどんな名前にしようか考えます。「この子が元気にすくすく育ってほしい」「明るく華やかな人生を歩んでほしい」名前には、そうした祈りが込められます。
これは亡き人に対しても同じです。亡き人に新たな名前を授けるという行いには、「これまで生きてきた功績をたたえたい」「彼方の世界でも苦しむことなく穏やかに過ごしてほしい」という祈りが込められているのです。
得体の知れない死の問題をお坊さんに託す
さて、祈りをこめて名前がつけられるのですが、ではなぜ私たちはそれを自分自身ではなくお坊さんに任せてしまうのでしょうか。
赤ちゃんに対しては自分たちで名前を付けられますが、亡き人に対してはどんな名前をつけるべきかわかりません。それは、赤ちゃんに対しては私たちは人生の先輩ですが、亡き人に対して、私たちはあの世の先輩には絶対になれません。それなのに、あの世で生きていくための名前を授けるというのは土台ムリな話なのです。それだけ私たち人間が死というものをおそれ、死後の世界が得体の知れないものであるということを示しているのではないでしょうか。だからこそ死者への名づけを、供養の専門家であるお坊さんにお願いするのです。
亡き人がすでにこの世にいないことを受け止めるために
どうして生前の名前のままではだめなのでしょうか。実際に戒名を授からずに生前の名前のまま墓石に彫刻する人も一定数います。
大切な人の死は受け入れがたいものがあります。しかし、私たちはその事実を受け止めることでしか前へ進むことができません。あの人はもうこの世の人ではないのだ。そう認識するためにこれまでの名前を卒業して、あらたな戒名を持って故人と向き合います。
つまり、戒名とは亡き人に向けられたものでありながら、遺された私たちが1日も早く日常を取り戻し、幸せに生きていくためのものでもあるのです。
墓石に戒名を刻み、永遠の幸せを祈る
戒名は、お寺の過去帳に、お仏壇の位牌に、そして墓石に彫刻されます。石はとても硬く、重く、どんな風雪にも耐えてただただじっとそこにい続けてくれています。その表面に刻まれた名前を見て、子や孫、数十年、数百年後のまだ見ぬ子孫たちが、手を合わせ、自分たちのルーツに想いを馳せるのです。
墓石には戒名と俗名(生前の名前)が彫刻されます。「太郎さんという人がこういう戒名をもらったんだね」と、後世の子孫が語り合うその隙間に、太郎さんがたしかにこの世に生きた人であることの物語が見えるのではないでしょうか。
墓守の会は、亡き人に授ける名前として、戒名が必要だと考えます。しかし、この戒名必要論がより広く浸透するためには、名付ける側のお坊さん方が、教義的にも、金銭的にもそのハードルを下げて、よりわかりやすくその意義を伝えていかなければなりませんね。