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当会にかかった2本の電話
ある年の12月の寒い日、当会に2本の電話が鳴りました。
はじめの方は、少し威圧的な話し方で「おたくでお墓を建てるならナンボやねん?」と尋ねられました。こちらがいろいろと細かい内容をお伺いしても、「30万円で建てたい」「年内に建てたい」と、なかなか無理な要望をまくしたてられました。
しかし、高圧的な声の中にお墓に対しての必死さや真摯さが感じられ、最後に山田(仮名)という名前だけ言い残し、電話を切られたのです。
その2日後、別の男性からお電話をいただきました。
こちらも内容は建墓のご相談。くわしく伺ってみると、墓地の場所やお客様をめぐる状況が、どうも2日前の男性からの電話に似ている。お名前を伺うと「山田」と答えられました。
「もしかして、ご親戚などおられますか?」と先日の電話のことを伝えると、「多分弟です」とすぐに理解されました。
ご兄弟が別々に当会にお墓の相談の連絡をよこす。何か背景がありそうなので、その日のうちに男性のご自宅にお伺いし、詳しく経緯を聞かせていただきました。
憎しみと不安に苛まれた20年
はじめにお電話をいただいたのが弟で。2日後にお電話をいただいたのが兄。
複雑な事情があり、弟さんは神戸から県外に飛び出して20年近くが経ったといいます。どこで何をしているかも分からず、音信不通だったそうです。
「ほんま憎たらしい弟ですわ」とお兄さん。しかし、憎しみだけではなく不安な思いもずっと抱えていたと言います。
「どこで何をしているのか全く分からない。私はいいですが、弟を心配する母親がかわいそうでした。はじめのうちは電話や手紙のやりとりをしていたらしいですけど、その後は全くの音信不通。さんざん迷惑をかけられました」という視線の先にはお母さまの遺骨と遺影写真。女手一人で2人の男の子を育て上げられたのです。
埋葬できないままでいた母の遺骨
「母は5年前に息を引き取ったのですが、恥ずかしいことに、経済的な余裕がなく、なかなかお墓を建てられずにずっとここにお骨を置いたまま。情けない限りです」と山田さん。
関東地方のある都市に住んでいた弟さんは、死後5年経って風の便りで訃報を聞きつけたと言います。すぐにお兄さんに電話をして状況を確認。遺骨が自宅にあることを聞くと「なんで墓も建てんのや!」と激怒。
お墓を建てられなかったうしろめたさと悔しさと、これまで音信不通だったにも関わらず、突然電話を寄こして高圧的な態度をとってきた弟さんに対しての怒りが湧き上がります。電話越しで激しく罵り合いになったと言います。
間を取り持ってくれたのは墓地のあるお寺の住職でした。お兄さんとのやりとりを終えた弟さんがお寺に電話。そこで住職が当会をご紹介してくださったのです。
住職は、「お母さんがふたりを結びつけてくれたんや」と言ってくれたそうです。
「20年ぶりの再会で、そら喧嘩もするわ。でも、いがみあいはここまでや。ふたりで協力してお金を出し合うんや」と。
母が結びつけた20年ぶりの再会
その後はふたりでお金を出し合い、立派なお墓を建てられました。
開眼法要の日は、お兄さん家族と弟さん家族が揃ってお寺に集合。弟さん家族は前日に神戸入りして、みんなで有馬温泉で1泊したのだそうです。
はじめて当会にお電話をいただいた時の凄んだ声と打って変わって、実際の弟さんは朗らかな方でしたが、法要が終わる頃、私の手をとって涙を流して下さいました。
「ほんまにいろいろすみませんでした。おかげで小さいながらも立派なお墓を建てることができました。おかんも土に還れてほっとしてるでしょうし、わしらの姿を見て安心してくれてると思います」
本当にあった家族再会物語。お寺の住職によると、いまでも毎年8月のお盆には兄弟揃ってお墓参りされているとのことです。