「お墓がなくて、お骨をどこに納めたらいいのか分からない」
「お墓はあるけれど、いつかは墓守がいなくて無縁墓になってしまう」
このように、行き場のないお骨をどのようにしたらいいか困っていませんか? あなただけではありません。少子高齢化社会で、たくさんの人たちがお骨の行き場に困っているのです。高齢者の介護が大きな社会問題になっていますが、その後の死後の遺骨の取り扱いも同じくらいに私たちの頭を悩ませます。亡くなったあとも親のことを自分たちが背負わなければならない。まさに「終わりのない介護」をどのように解決すべきかを考えます。
目次
遺骨になっても親の面倒を見る 核家族社会の限界
高齢期から終末期にかけての親の介護。その大変さに苦しんでいる人がたくさんいます。もちろん大切な両親ですから、さまざまな制度やサービスを利用しながら、両親の最終期をなんとか手厚く支えようとします。心身ともに大変なのに、子や家族を突き動かすのは、両親への感謝、子としての義務、そして人間としての尊厳ではないでしょうか。
しかし、現代では、亡くなったあとも親の面倒をみなれければなりません。そう、遺骨です。遺骨をしかるべき場所に埋葬して供養したいのに、その行き場がない。遺骨の迷子がたくさんいるというのが実情なのです。こうした親の介護や供養を、感謝、義務、尊厳などと個人レベルの問題として背負わすのは、あまりにも酷です。
一昔前はどうだったかというと、核家族ではなかったために、共同体の範囲が大きかった。家族はもっと大家族でしたし、さらにその周辺には村というコミュニティが広がり、人々が人々を支え合っていました。
遺骨の行き場だって、村には墓地がありましたし、埋葬したら墓標なり墓石を置けばよかった。村の中には供養してくれるお坊さんもいる。ゼロから自分たちですべてのことを決める必要がなかったのです。
核家族というのは、元気に生きているうちはいいのですが、高齢期や終末期、さらには亡くなった家族をきちんと供養するためには、なんとも欠陥だらけの融通の聞かない制度です。資本主義社会で経済第一でやってきたツケがここに回ってきているのです。
みんなでお墓を守る社会に
とはいえ、いまさら100年前にタイムスリップするわけにはいきません。私たちはどうすればいいのでしょうか。
もしも、「実家に我が家のお墓がある」という人は、ぜひともそのお墓を活用しましょう。「遠い」「お掃除が大変」「管理が手間」などという理由で墓じまいをするのは、あまりにも焦りすぎです。せっかく納まるべきお墓があるというのに、これをみすみす手放すのはあまりにももったいない話です。
納まるべきお墓があるというのは亡くなっていく本人にとっては大きな安心感につながりますし、残された家族の負担も大きく軽減されます。
そして「遠い」「大変」「手間」という問題は、ぜひともあなた1人でなく、みんなの力を借りながら解決しましょう。
お墓の近くに住んでいる親戚や友人に墓守をお願いするのも1つの方法ですし、「そんな人なんていないよ」という方のために、私たち墓守の会があります。
生きている人の命を看取ることの大変さはあらゆる場所で語られています。だからこそ、亡くなった方の遺骸や遺骨は母なる大地に還し、委ねることで、亡き人は自然に還り、私たちも負担から解放されます。
故人様の、そして私たちの幸せのためにも、お墓を家や子孫だけでなく、社会全体で守っていくことが大切ではないでしょうか。
どんなに小さくて、埋葬と礼拝ができるお墓を持とう
最近では実家にもお墓がないという人も少なくありません。こうした人たちは新たにお墓を建てるのではなく、納骨壇や永代供養という方法を選ぶことが多いようです。
しかし、納骨堂は窮屈なスペースに骨壷を預けておくだけ、つまり遺骨を土に返すことができません。一方の永代供養では、他の人と同じ場所に遺骨が葬られ、個別に手をあわせることができません。
故人様だけの、あなただけのお墓というものをぜひとも持って欲しいと思います。安くても、小さくても構いません。遺骨を土に還すことの安心感。そして個別に手を合わせられるあなたと故人様だけの空間。どんなに小さくても、お墓にはふたつの大きなメリットがあり、必ずやあなたの心にやすらぎを与えてくれます。
最近では期限付き墓石も販売されていますし、墓守の会も、「みんなでお墓を守る社会」を目指しています。お困りの方はぜひともお気軽にご相談ください。