空前の大ヒット漫画となった『鬼滅の刃』。たくさんの人たちがさまざまな角度からその魅力について語っていますが、実は本作、人間が生きていく上でものすごく大切なことを見事に描いているのですが、だれもそのことに気づいていません。
それは一体何なのか? そう。お墓です。
大切な人を失いながらも仲間たちとともに鬼と戦っていく登場人物たちの生きざまに、老若男女問わず多くの日本人が共感を覚えましたが、そこには必ずお墓のシーンが挿入されます。人が死ぬこと、そして生きること。人類が命をつないでいく上で欠かせないお墓の大切さを『鬼滅の刃』は知っていたのです。お墓の魅力、埋葬の大切さを、『鬼滅の刃』を通じて存分に語って参ります。
※ ネタバレの可能性がありますのでご了承ください。
目次
『鬼滅の刃』の仏教的要素と欠かさず描かれる埋葬のシーン
『鬼滅の刃』には仏教的要素がたくさん含まれていることは、各方面の僧侶や専門家が指摘するところです。
たとえば「全集中」や「呼吸」は坐禅に通じるところがあり、執着の強い鬼たちは煩悩のメタファーだと言われています。
悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)が身につけるのは数珠で、不死川実弥(しなずがわさねみ)が唱えるのは『阿弥陀経』。
そして何より自分のことよりも他者のことを優先させ、死んでいく鬼をすら慈しむ主人公の竈門炭次郎(かまどたんじろう)は衆生を救ってくださる菩薩様のようです。
しかし意外と語られていないのが、死者の埋葬やお墓のシーン。彼らは、戦場で散ってしまった仲間たちを必ず手厚く埋葬し、それから次なる鬼との戦いへと向かっていくのです。
『鬼滅の刃』の全編において、炭治郎は死者の埋葬にこだわります。時には、敵であるはずの鬼ですらきちんと埋葬してあげようとしてあげようとしているのです。そして、埋葬の描写は、炭治郎の慈悲心が深いだけでなく、物語を進めるためのひとつの記号となっています。
埋葬をくり返して物語は進展する
第1話では、失った家族を埋葬したあとに妹の禰豆子に「行くぞ!」と声をかけます。埋葬は区切り、そして「行くぞ!」のセリフは次への進展を意味します。
第21話では、鼓屋敷で鬼に殺された少年の亡骸に向かって「戻ってきたら必ず埋葬します。すみません。すみません」と語りかけるコマをわざわざ挟み込みます。そしてここでも「善逸‼︎行こう」と次なるステージへと向かいます。
響凱(きょうがい)との戦いのあとも、亡くなった人たちの遺骸を埋葬してから次のステージへと進みます。
ちなみに、第43話では死闘の末に炭治郎に打ち負かされた累の背中にそっと手を伸ばし、弔おうとします。死ぬと体が崩れて消えてしまう鬼は、埋葬すら許されない存在。そんな鬼に対しても炭治郎の慈悲心が向けられます。
埋葬は、人間が死者を弔うために行う原初的な営みです。人は、死者なき新たな世界を生きていくために葬儀や埋葬をします。
つまり、葬儀や埋葬とは、そもそも明日を生きていくための大切な通過儀礼であり、作者の吾峠呼世晴さんはそのことを漫画の中で丹念に描きつつ、物語の進行にも用いているのです。
埋葬のシーンがあろうとなかろうと、物語を進めることはできます。埋葬のシーンが描かれなくても、話全体が損なわれることはありません。
そしてそれは、「死んだ人にお金をかけて何になる」「葬儀やお墓がなくても、心で祈っていればそれでいい」という昨今の葬儀不要論やお墓不要論に通じているように思うのです。
なくても問題ない。しかしあえて埋葬という通過儀礼を手厚く行うことで、人生が、物語が、より力強いものになる。埋葬のシーンを丹念に描く作者の吾峠呼世晴さんの信念には目を見張るものがあります。
鬼殺隊の多くは、自らの家族を失ったものたちばかり。我執に捉われてばかりいる鬼と対比するように描かれる炭次郎をはじめとする鬼殺隊たちを突き動かしているのは、やさしさ、思いやり、家族や仲間への愛に他ならないのです。
炭次郎は21世紀型の主人公だと言われていますが、利益追求型の社会から思いやりの社会へ。人を思いやること、仲間を思いやることの大切さの一要素として、埋葬やお墓が丹念に描かれているのは、お墓のプロとしてはとっても嬉しい点です。